主人公・フュリオサに感情移入できないワケ
本作において、フュリオサ(アニャ・テイラー=ジョイ)のもっとも重要な「復讐」の感情は、母の死と、その死をもたらしたディメンタスに向けられる。そのモチベーションはかなり明確に示され、フュリオサの主観ショットで母親の表情がしっかりとクロースアップで捉えられた瞬間に、観客はフュリオサの復讐心へと強烈に感情移入していく。
しかし、物語が進むにつれて、フュリオサへの感情移入をガイドする構図やセリフは少しずつ薄れていく。その点で特に印象的なのは、フュリオサがパートナーであるジャックと最後の会話を交わすシーン、そしてジャックがバイクに繋がれて引きずりまわされるシーンだ。前者はディメンタスの演説をカメラが追った結果、2人の最後の交感は観客にはほとんど伝わらない。
普通の映画なら、顔を寄せあった2人の横顔をドラマティックに撮ってみせるだろう。そして後者はそもそも直接的なシーンが描かれず、砂煙の中にジャックの死は埋没していく。すでに観客が感情移入しているフュリオサの感情のボルテージを上げるために、フュリオサにとって大事な人の喪失という悲しみを上乗せしてクライマックスへの道のりを舗装してもよさそうなのに、この映画は決してそちらの道を選ばない。
この映画の主人公はフュリオサだ。フュリオサの復讐を見届けに、観客は劇場を訪れている。観客はどうにかフュリオサの感情と一体化したい、残酷にもフュリオサの人生を奪った者たちを憎みたいし、フュリオサが大切なものを失う様子を観て、その怒りに共感したい。ウォー・ボーイズと共にV8と叫んだ、あの時みたいに。けれど、この映画はフュリオサの感情を観客に分け与えることに、きわめて消極的だ。