イラン映画に脈々と受け継がれる
フェイクドキュメンタリーのアクティヴィズム
本作では、パナヒを軸に2つの物語が展開される。一つは、パナヒが撮影するドキュメンタリードラマの撮影現場の物語、そしてもう一つは、パナヒが潜伏しているイランの辺境の村での物語だ。
前者の物語は、トルコからの脱出を夢見る若いカップル、ザラとバクティアールが主人公。2人は、作品中のドキュメンタリードラマでも同じ役に出演しており、パナヒの指示で偽造パスポートを手に入れようと手配師にすり寄る。
後者の物語では、村の電波状況が悪くなり、スタッフとの通信が途絶したパナヒが、やむなく村人の写真を撮り始める。しかし、このときに撮影した写真がもととなり、村中を巻き込んだ騒動へと発展していく。
幾重にもおり重なる虚構と現実、そしてどこからが演技で、どこからが素なのか分からない役者の身振りー。本作のこういった展開は、場合によると、トリッキーな印象を与えかねないものだが、実はパナヒの、ひいてはイラン映画の「お家芸」でもある。
例えばパナヒが2017年に制作した『人生タクシー』では、タクシー運転手となったパナヒが、自身と乗客との対話を車載カメラで撮影したドキュメンタリー作品だ。加えて、一時期パナヒが助監督を務めていたイラン映画界の巨匠アッバス・キアロスタミも、『友だちのうちはどこ?』(1987年)で、友だちのもとへノートを返しにいく少年の姿をドキュメンタリー調に撮影している。
また、メタ映画という観点では、監督のモフセン・マフマルバフが自身の少年時代の体験の映像化を試みる『パンと植木鉢』(2000年)が外せないし、最近では、イラン国内の娼婦暴行殺人事件からイランの性差別を取り上げた『聖地には蜘蛛が巣を張る』(アリ・アッバシ監督、2022年)もドキュメンタリー的要素を兼ね備えた映画だった。
こういったイランのフェイクドキュメンタリーの伝統には、映画を虚構の世界に閉じ込めるのではなく現実世界に働きかけることで、現行のイランの体制に一石を投じようという映画作家たちの気概が垣間見える。つまり、この『熊は、いない』も、こういった系譜の中に位置付けられるべき作品なのだ。