「強いアメリカ」の終焉―脚本の魅力
本作の物語は、シガーとモス、そしてベルの3者の行動原理から成り立っている。
まずモスについて。彼の行動は「家族への愛」がきっかけになっている。溶接工であるモスは、自らの貧しい境遇を麻薬取引現場から200万ドルを持ち逃げする。明言はされないものの、この行動の裏に母親の反対を押しきって自身と結婚してくれた妻カーラを幸せにしたいという思いがあることは容易に想定できるだろう。
一方、保安官ベルは、「正義」が行動原理になっている。代々保安官の家に生まれた彼は、凶悪化する近年の犯罪を「理解できない」と困惑し、社会がおかしくなっていると述べる。そして、あまりにも残虐な犯罪を目の当たりにし、自分の正義を完全に見失ってしまう。
そして、シガーの行動原理は「運命」だ。彼は、出会った者を皆殺しにし、時にコイントスで殺すかどうかを決める。つまり、彼は、コイントスという偶然に左右されるものに運命を見出し、そこに人間の生き死にを委ねており、「金や麻薬を超えた規範」(カーソン・ウェルズの言)に則って行動しているのだ。
また、シガーは共同体の異邦人でもある。これが分かる象徴的なシーンが、序盤のガソリンスタンドのシーンだ。
このシーンでは、ガソリンスタンドに寄ったシガーに、店主が「ダラスから来たんだろ?」と他愛のない世間話をしようとする。これに対し、シガーは「どこから来たかお前に関係ないだろ。友達か?」と突っぱね、店主は「別に意味はないけど…」と顔を引きつらせる。
確かに、世間話には意味はない。ただ、世間話をすることで相手が安心してコミュニケーションを計れる共同体の仲間であるかどうかが確かめられる。つまりシガーは、共同体の外側からやって来た超自然的な存在なのだ。
では、3者の行動原理にどんな意味があるのだろうか。ここで考えるべきポイントは、作中に保安官や荒野といった西部劇のモチーフが散りばめられている点だ。
周知の通り、白人たちが先住民を駆逐する西部劇は、アメリカの国是であるフロンティア精神を体現する映画ジャンルだ。しかし、アメリカ全土からフロンティアが消えうせた今、西部劇というジャンルは完全に終わったジャンルと見なされることが多い(西部劇の終わりを示した作品としては、クリント・イーストウッド監督が“最後の西部劇”『許されざる者』(1992)などが挙げられる)。
しかも、本作の場合は、共同体の異邦人であるシガーやメキシコのギャングたちが絡んでくる。つまり、西部劇というテンプレートを使用することで、アメリカ、ひいては国家という共同体そのものの崩壊を描いているのだ(モスが、アメリカが初めて敗北した戦争であるベトナム戦争の帰還兵であるというのもキーポイントだろう)。
こういった失われた「強いアメリカ」の象徴がベルだ。彼は、モスたちの殺害現場に臨場し、その手口のあまりの残酷さに言葉を失う。そして、西部の叔父エリスのもとへと足を運び、保安官を辞めようとしていることを伝える。すると、エリスは、かつて先住民の悪党との銃撃戦で殺された大叔父の話を語り、「この国は人に厳しい。変えられると思うのは思い上がりだ」と述べる。
本作は、「民主主義の終わり」と言われた同時多発テロから6年後に公開されている。そしてアメリカは今、移民問題や内政問題、中東和平など、さまざまな問題を抱え、「世界の警察」というかつての立場から手を引こうとしている。そういう意味では、本作は現代の世界を予見した映画といえるかもしれない。