バズ・ラーマン『エルヴィス』が描くプリシラ像との決定的な違い
2022年にバズ・ラーマンが撮ったエルヴィス・プレスリーの伝記映画には『プリシラ』同様、『エルヴィス』と名前だけが冠されている。これらのタイトルが並べば、まるで『プリシラ』をもってコインの表と裏が完成されるのを予告していたようでもある(もっとも、コインの表裏といえど、男性監督による男性主人公の映画と女性監督による女性主人公の映画でかけられた予算がまったく桁違いである事実は見過ごせない)。
バズ・ラーマン版のエルヴィスの物語において主たるパートナーの位置にいるのはプリシラではなく、マネージャーのトム・パーカーだった。そこでは、プリシラは仕事に邁進する夫のサポート役としての「妻」に徹しており、エルヴィスとの決別の原因はあくまで彼の薬物依存に単純化されているようで、最後まで治癒を願う献身性を纏って退場する。
一方『プリシラ』は社会で活躍する夫と補助役としての妻という既存の性別役割分業を解体し、エルヴィスとプリシラの関係性の一面的な理解を拒絶する。
プリシラとエルヴィスが出逢う序盤の場面、プリシラは迷い込んだ子羊のようにカウチに腰掛けるエルヴィスを見つけ出す。そこからプリシラはつねにエルヴィスのいる場へといざなわれてゆくか、あるいはその場に留まりエルヴィスの帰りを待つかを繰り返し、エルヴィスがツアーや映画の撮影であちこちを飛び回るのとは対照的である。
幼いプリシラを待っていた未知なる世界はグレースランドの敷地に縮小されてしまったかのようで、彼女には居場所がそこにしかない。エルヴィスはプリシラにアルバイトも許さず、自分が電話したときには必ず出られるようにしておかなければならないと家に縛り付ける。しかしひとたび口論になれば、今度はプリシラを親元へ帰そうとキャリーケースを放り投げさえするのだ。
エルヴィスはそうして、精神だけでなく身体からプリシラを支配する。だからこそ、プリシラがエルヴィスに別れを告げたとき、「結婚を終わりにする」という台詞よりもまず先に「出ていく」という言葉が口から出たのだろう。