ホーム » 投稿 » 日本映画 » レビュー » 新海誠が絶賛した声優とは? 東日本大震災を描いたワケと批判される理由は? 映画『すずめの戸締まり』考察&評価。楽曲も解説 » Page 4

扉を閉じていく物語ー脚本の魅力

新海誠監督Getty Images

新海は、本作を制作する際に参考にした作品として2つの作品をあげている。そのうちの1つが、村上春樹の短編「かえるくん、東京を救う」(『神の子どもたちはみな踊る』所収)だ。

この作品は、東京を舞台に、巨大地震を起こす「みみずくん」と地震を阻止しようとする「かえるくん」の攻防を描いた作品で、『すずめの戸締まり』の脚本の骨子と似通っている。

しかし、本作には、新海誠ならではと言える要素が登場する。それが「神道」だ。

前作『君の名は。』では、口噛みの神事や巫女、「結び」といった日本神話的な要素を作品に散りばめていた新海は、本作の設定にもこういったモチーフを散りばめている。

例えば、本作の主人公2人の苗字である「岩戸」と「宗像」は、それぞれ神話上で天照大神が隠れた天岩戸と宗像三女神を祀る宗像大社に由来する。また、作中に登場する「常世」は、日本神話の根幹をなす世界観として知られている。

極め付けは、草太が儀式の際に発する言葉だろう。「かけまくもかしこき日不見(ひみず)の神よ」からはじまるこのフレーズは、災害から国民を守るために祈祷する天皇の祝詞に酷似しており、ネット上では公開当時、草太が「裏天皇」であるとして話題になった。

なお、こういったモチーフは、口噛みの神事や巫女など、新海の前作である『君の名は。』にも散見されるテーマだ。しかし、本作では、古神道の重要な世界観である「常世」が登場することも相まって、より先鋭化されているように思える。

では、新海はなぜこういった神道的なモチーフを引用するのか。その鍵となるのは「セカイ系」というバズワードだ。

「セカイ系」とは、主人公の自意識が世界の命運と直結する物語の類型で、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』(1995〜)がその嚆矢とされている。そして、他ならぬ新海自身、ずっと「セカイ系」の作家として位置付けられてきた。つまり、新海は本作で、日本の神道的世界観を換骨奪胎することにより、近代国家の日本を「セカイ」として描出しているのだ。

しかし、新海が描く「セカイ」には、従来の「セカイ」にはないオリジナリティがある。それは、新海の描く作品が、あくまで「社会」に根ざしているという点が挙げられるだろう。

『新世紀エヴァンゲリオン』を例に挙げてみよう。本作は、エヴァンゲリオンと使徒との格闘以外のパートは、ほぼ主人公・碇シンジの内省的なモノローグで成り立っている。こういった描写は「セカイ系」がしばしば「社会をすっ飛ばしている」と言われるゆえんだ。

一方『すずめの戸締まり』では、こういった内省がほとんど存在しない。代々閉じ師の家系に生まれた草太は社会を地震から守るためにミミズと戦い、震災孤児の鈴芽は、「常世」で出会った過去の自分に未来への希望を語る。本作には「セカイ系」特有の「ウジウジ感」が微塵も感じられないのだ。

ここで登場するのが、本作のもう1つの参考作品、宮崎駿監督の『魔女の宅急便』(1989)だ。

周知の通り本作は、見習い魔女のキキが見知らぬ町で修業し、一人前の魔女として独り立ちするまでを描いた成長物語だ。本作を念頭に置くならば、『すずめの戸締まり』は、震災孤児である鈴芽が草太との旅を通して成長し、前を向くまでの過程を描いた物語といえるだろう。

新海は、製作発表記者会見で、「扉を閉じる」というキーワードについて、「どんなことにおいても何かを始めることよりも終わらせることのほうが難しいのではないか」と述べ、次のように語っている。

「今作るべきは、もしかしてお客さんが今観たいのは、いろんな可能性をどんどん開いていく物語ではなく、散らかってしまったひとつひとつの可能性をもう一度きちんと見つめて、あるべき手段できちんと閉じていくこと。それによって次に進むべき新しい本当の場所を見つけるような、そういう物語ではないかと考えました」

新海自身が述べているように、私たちは前を向くために、「扉を閉じていく物語」を必要としている。そして、本作における鈴芽と草太の旅路こそ、「扉を閉ざす行為=弔い」なのだ。

そういった意味で、本作を単なる「セカイ系」の枠に収めてしまうのは少し短絡的かもしれない。本作は「セカイ系」を超え、新たな「セカイ」へと踏み出す作品なのだ。

1 2 3 4 5 6 7
error: Content is protected !!