父への愛と反発とは? 映画『ザ・ウォッチャーズ』考察レビュー。イシャナ・ナイト・シャマランの初長編を読み解く【後編】
M・ナイト・シャマランの娘であるイシャナ・ナイト・シャマランによる長編初監督作品『ザ・ウォッチャーズ』のレビューを全3編でお届けする。原作は作家A・Mシャインが2021年に出版した同名ホラー小説。後編では、ジャック・ラカンの眼差しにまつわる論考から本作の試みに迫る(文・冨塚亮平)【あらすじ キャスト 解説 考察 評価】
※原作「The Watchers」からの引用部分は、括弧内にページ数を明記する。
——————-
【著者プロフィール:冨塚亮平】
アメリカ文学/文化研究。神奈川大学外国語学部准教授。ユリイカ、キネマ旬報、図書新聞、新潮、精神看護、ジャーロ、フィルカル、三田評論、「ケリー・ライカートの映画たち漂流のアメリカ」プログラムなどに寄稿。近著に共編著『ドライブ・マイ・カー』論』(慶應大学出版会)、共著『アメリカ文学と大統領 文学史と文化史』(南雲堂)、『ダルデンヌ兄弟 社会をまなざす映画作家』(neoneo 編集室)。
「混血」を恐怖の対象としてではなく希望として描くこと
ところで、混血を恐怖の対象というよりもむしろ希望として描いたイシャナの改変は、原作と比較しても興味深い論点を含んでいる。シャインは、読者としてエドガー・アラン・ポーやH,P.ラブクラフトなどのアメリカのホラー小説から多大な影響を受けてきたことをインタビューで公言している。じっさい、本作に登場するマデリンの名は、間違いなくポーの「アッシャー家の崩壊」から取られたものであろう。
シャインの意図はおそらく、屋敷の地下で生き埋めにされた存在としてのアインリクタン=マデリンという連想に加え、鳥かごの崩壊とアッシャー家のそれを重ねることだったと思われるが、現代のマデリンがなぜポーのケースと異なり生き残ったのかについて、小説一作目でその理由が示されることはない。
一方でイシャナの改変は、家屋と血統という元のタイトル(アッシャー家 The House of Usher)に込められたダブルミーニングをより興味深い方向に開いている。異種混淆によってこそ、マデリンは生き延びるのだ。
さらに言えば、この混血というテーマは、ラブクラフトが怪物を描く小説でしばしば恐怖と忌避の対象として描いてきたものでもあった。たしかに、妖精・怪物との種間混血を肯定するかのような結末は、原作がケルト的想像力を経由して導入していたラブクラフト的なコズミック・ホラーの感覚を損なってしまっているだろう。
しかし同時に、結末部の発想からは、伴侶種について長年論じてきたダナ・ハラウェイが、ラブクラフトとの関連を否定しつつも最新著に掲げた造語、「クトゥルー新世(Chthulucene)」を生きるキメラ的存在たちのことが想起されもする。
混血を肯定する展開は、ホラーからファンタジーへの移行と並行しており、結果としてジャンル映画としてのわかりやすい娯楽性にはつながらなかったことは確かだ。だがそれでもイシャナには、スリラー/ホラーとしての統一感を犠牲にしても表現したいものがあったのだ。
イシャナは、怪物=妖精が混血によって人間と和解する可能性を残すことで、原作者よりも過激にポーやラブクラフトの伝統を換骨奪胎したと言える。たとえばニュービーも、かつて混血の対象として多くのフィクションで恐れられてきた「黒人」としての自らの出自にも触れた上で、ホラー映画における混血の位置づけをずらした本作の試みを評価している。
さて、最後にここまでの議論をあらためて眼差しとジェンダーという観点から捉え直してみたい。まず、見る者と見られる者をはっきりと分離する「鳥かご」という象徴的な装置は、これまで数多のホラー映画を規定してきた「性的差異の政治学」(バリー・キース・グラント)※に依拠したものでもある。どういうことか。
※“Introduction.” The Dread of Difference: Gender and The Horror Film, p2. グラントをはじめとするフェミニズム映画批評とホラー映画の関係についての簡潔なまとめとしては、鷲谷花『姫とホモソーシャル 半信半疑のフェミニズム批評』第7章を参照。