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鳥かごという装置のなかでいかに自己を構築するのか

©2024 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED
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 子供時代をやり直すかのようなミナにとって、鳥かごは実家の、マデリンは両親の代理であったし、罪の意識を抱え続けるミナにとっては、鳥かごは監獄、マデリンは看守としても機能する。

 もちろん、ウォッチャーズからの視線を内面化することで規律に適応する主体となることは可能だ。そうすることができていれば、ミナもまた双子の姉のように生きられたはずだ。だが、彼女にはそれは不可能だった。彼女が繰り返し規則を破ってきた様は、すでに見た通りだ。

 では逆にミナは、近年多くのヒット映画を彩ってきたヒロインたちのように、主体的に「見る」力を獲得するのかといえば、それも違う。一見、性差をめぐるステレオタイプを温存しているようにも感じられる鳥かごという装置のなかで、彼女はいかに自らの過去を許し、再び自分を愛することができるようになったのだろうか。

 ここで、もう1度父との対比の視点を導入しよう。シャマラン親子は、ナルシシズムの問題と関連づけつつ主人公の「目覚め」を描こうとしている点では共通しているように思える。だが、ゴールは類似していたとしても、そこに至る経路は全く逆となっている。

父M・ナイトは、「男性の眼差し」の典型例として挙げられるヒッチコック映画の多大な影響下で、一貫して「見ること」を問題化してきた。対してイシャナは本作で、むしろ「見られること」にこそ焦点を当てているように見える。

つねに/すでに視界に入っていた「サイン」を改めて「見る」ことで目覚める父の映画の主人公たちに対して、序盤から「見られる」存在としてディスプレイされるミナはいかにして目覚め、主体として自己を構築することとなるのか。

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