「まだら」な分裂を共有する
主体はたとえばミナの姉のように法に適合するのでも、中盤までのミナのように単に法を破るのでもなく、むしろ「法から逸脱するもの」として誕生し、「法を超える」。マデリンに課された三つの規則を守ること、あるいはそれに反抗することはいずれも法の範囲内での行為にすぎない。
だがミナは、鳥かごが壊れたことを契機として、法を破るのではなく、法の外側に出る、つまりは「法から逸脱する」。そして、オウムと平等に眼差しを交換しあう関係となって森を抜けようとすることで「法を超える」。
コプチェクによれば、「女こそ、ラカンのいう歪像ないし染みとして、他のなににもまして主体なのである」(『《女》なんていないと想像してごらん 倫理と昇華』 103)。
ミナもまた、「見られる」という受動的な立場を強いられるなかで、擬態や模倣によって「まだらになり」、染みになった。そして、混血であるマデリンもまた、ミナや他の人間たちに擬態するなかで「まったく場違い」な存在であるデイウォーカー、アインリクタンとして、やはり「まだらに」なった。
「まだら」な分裂を共有するすみっコとしての互いへの部分的な共感が成立したからこそ、マデリンは最後にミナを殺すことを思いとどまったのだろう。※
コプチェクはベルサーニを引きつつ、「わたし」つまり主体は、「「感情による推論」、対象へのリビドー備給からやってくる身体経験である」(同書、102)と簡潔にまとめた上で、こう述べる。「一見耐えがたく受動的に見えるありかた——愛されることを願うこと——はじつは、愛へと向かう欲動が自分へと戻ってくる曲線なのである」(同)。
※マデリンが生物学的な女性ではないことからもわかるように、ラカン=コプチェクの言う「女」は、主体化の方法によって「見ること」で主体となる「男」と区別されているにすぎない。