『オッペンハイマー』とは質を異にする「映さない」ことの戦略
パパ/ママ/子どもたちのファミリームービーが平和に画面を彩るのみで、ホロコーストを直接的に映した映像はワンカットも登場しないが、大勢の悲鳴、銃声、不明な破裂音、不気味な蒸気音、轟音が画面外のノイズとして24時間鳴り止むこともない。
ヘス家の人々はそれらにまったく反応しない。筆者はクリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』のレビューで映すこと/映さないことをめぐるノーラン編集の極度の恣意性を批判的に書いた。映さずに「想像させる」演出だという解釈は、映すことで機嫌を損ねる人々への忖度にもなり得るからである。
いっぽう『関心領域』のジョナサン・グレイザーは、映らないことそのものを主題として前景化させるため、画面には画面外よりも重要ではないものしか映っていないよと強調するために、画面という画面をできるだけ狭小に限定する。
本作でアカデミー賞音響賞を受賞することになるターン・ウィラーズ&ジョニー・バーンは、アウシュヴィッツ強制収容所をめぐる600ページもの資料帳を事前にまとめてから音響デザインの作業に取りかかった。
筆者の推測としては、彼らの念頭にあったのはドイツ映画『マリア・ブラウンの結婚』(1979/ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督)における通奏低音として絶えず聞こえる工事現場音だったのではないか。
関心/無関心の領域範囲を最も雄弁に証立てる役割を担ったのは、画面ではなく音響だったわけである。象徴的なシーンは、妻ヘートヴィヒの母親がドイツ国内から孫の顔を見にきてヘス邸に宿泊するが、夜中じゅう途絶えることのない収容所の音で寝付けず、ウィスキーをがぶ飲みしているショットである。翌朝早く、娘に置き手紙だけを残して母親は邸宅を後にしている。