幾重にも張り巡らされたコンパートメント化の層が観客を脅かす
では、画面はひたすら皮肉のように、無気力のように、美しい田園、花々、豊かな家庭生活を映すのみなのか。いや、そうではない。画面は関心/無関心の領域の峻別に余念がなく、その峻別の息苦しさが観客を脅かしている。
グレイザーの画面作りの主眼はコンパートメント化(分離隔離化)である。虐殺現場を遮蔽する塀の壁。迷路のような回廊。几帳面に鍵をかけていく夜の戸締りの儀式。ヘス邸のシーンや、ナチスの祝賀パーティ会場のシーンなどでは10台のSony Veniceデジタルカメラがロケセットに備え付けられ、撮影現場には俳優陣以外のスタッフは全員退去し、5名のオペレーターが遠隔操作で同時撮影をおこなった。
監督は現場から離れたトレーラー内で10台のモニターを眺めながら演出指示をおこなう。映画の内容がホロコーストの領域をコンパートメント化しているならば、映画の製作手順も領域をコンパートメント化している。
ナチスによる人種差別的コンパートメント化が最初にあって、より広範囲なドイツ国民の東方フロンティア拡大としてのコンパートメント化が将来展望としてあり、さらに主人公夫婦の邪悪な関心範囲のコンパートメント化がちょうど映画のセンターに来るようにしつらえられ、それを外側からとらえる映画行為そのものも不気味な方法論でコンパートメント化されている。二重、三重の隔離政策である。
「私は座って10台のモニターを見ているだけですから」と言うグレイザーは、自身のロケーション環境を「アリーナ」と形容している。妻たちが1階でコーヒーを飲み、書斎では夫たちが死体焼却場の増設について打ち合わせをし、メイドたちはあちこちを動き回っており、玄関前では親衛隊将校たちが集合してヘス所長の誕生日を祝おうと待ち構えている。
こうした事柄が同時多発的、かつ即興も交えながら演じられ、10台の無人カメラが同時に遠隔操作で回っている。無人カメラの存在は家具や草花や食器の影に巧みに隠され、画面内ではバレることがなく、隠しカメラによる「アリーナ」の実況中継となる。この幾重にも隔離をめぐらせた遠近の演出が、この『関心領域』という作品をさらに不気味なものにしているわけである。