自作の海外評価の高さに戸惑いをみせる一面も
映画『羅生門』(1950)、映画『隠し砦の三悪人』(1958)(『スター・ウォーズ』に多大な影響を与えた)、映画『生きる』(1952)、映画『七人の侍』(1954)によって黒澤は一躍有名になり、日本映画を世界に広めた。
彼の作品群は刀で切り合う戦いの「剣戟(けんげき)」を中心に据えた「剣戟映画」に留まらず、和製フィルム·ノワールの傑作『野良犬』(1949)では戦後の日本に蔓延した犯罪について、原水爆の恐怖を真正面から取り上げたヒューマン・ドラマ『生きものの記録』(1955)では、核の恐怖を探求。作品を通じて反戦争の立場を強固にしていった。
黒澤は自国の伝統や様式だけに目を向けることはなく、映画『蜘蛛巣城』(1957)ではイギリスの作家・シェイクスピアの代表作『マクベス』を日本の戦国時代に見事に翻案。本作が『マクベス』の再解釈であることを隠そうともしなかった。
ところで、彼は自身の初期傑作『羅生門』に複雑な思いを抱いていたようだ。本作が自分の知らないうちにヴェネチア映画祭に送られ、喝采を浴びたことを知ったとき、「日本人はいつも日本映画に対し、酷く批判的だ。なので外国人がその責任を負うのは当然だ…」と回想し「日本の木版画(もくはんが)も同じで、まず外国人が評価したんです」と語っている。
彼のサムライ映画の多くは、基本的にアメリカやイタリアでオマージュが捧げられ、とりわけ、1960年代から70年代にかけて一世を風靡したイタリア製西部劇「マカロニ・ウェスタン」に深い影響を与えた。
「マカロニ・ウェスタン」を代表するイタリアの映画監督であるセルジオ・レオーネは、映画『荒野の用心棒』(1964)を製作したが、本作は時代劇である黒澤明の『用心棒』を西部劇に置き換えた話であり、制作陣が、黒澤に許可を得ていなかったため、レオーネ側を著作権侵害で告訴し勝訴したという経緯がある。
晩年「海外の観客のために作風を変化させたのか」と尋ねられた際、黒澤は「なぜ自分の映画が好まれるのかさえ理解できないし、映画が観客にどのような反応を引き起こすかを正確に予測することもできない」とあっけらかんと答え、欧米の観客に迎合しようとしなかったにもかかわらず、自作の海外評価の高さに戸惑いをみせることもあった。
黒澤の50年以上にもおよぶキャリアは、気まぐれな観客に翻弄され続けたといっても過言ではないのだ。