黒澤明作品史上最大の問題作『どですかでん』
三船敏郎との最後の仕事になった1965年公開の『赤ひげ』以降、黒澤の作風はさらなる変化をみせる。日本国内ではテレビの所有率が高まり、徐々に黒澤が得意とする大画面のスペクタクルは採算の合わないギャンブルと見なされるようになった。黒澤の実績がどうであれ、彼の高額な企画に将来を賭けようとする会社はほとんど現れなかったのだ。
70年代の日本映画界に関する欧米のイメージは、米国テレビタレントのディック・キャベットの言葉を借りれば「ソフト・ポルノとモンスター映画」というもの。皮肉なことに、黒澤が日本国内で苦しい立場に追い込まれていった1970年代以降、海外での評価はさらなる高まりを見せることになる。
一方で、日本映画界の権力者たちや関係者の多くは、黒澤明の高まる海外評価に当惑し不安を覚えた。国内での映画制作に黄色信号が灯った黒澤は貧困に陥り、自らの人生と芸術的本能を疑い、再検討することを余儀なくされ、一時アメリカに移住。彼の混乱は頂点に達し、映画『どですかでん』(1970)が日本で大コケすると、日本での展望も製作パートナーの東宝との関係も暗礁に乗り上げた。