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シンプルさの裏に息づく「究極の愛」〜脚本の魅力

© 2008 Studio Ghibli・NDHDMT
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本作の脚本は、『天空の城ラピュタ』(1986年)や『もののけ姫』(1997年)に見られるような構成の巧みさは影を潜めており、山場もなければ伏線やオチもなく、起承転結すら明確ではない。宮崎自身、最も重視しているものが「スピードと勢い」と述べている通り、展開も行き当たりばったりで、正直、全体的な消化不良感も否めない。では、なぜ宮崎は、そんな物語を書こうと思ったのか。それは、本作が「異類婚姻譚」であることに関係している。

異類婚姻譚とは、人間と妖怪や動物たちの結婚を描いた物語。本作のモデルである「人魚姫」をはじめ、「蛤女房」や「美女と野獣」など、世界各地に民話が残っている。「種をこえた愛」を描いたこれらの作品は、どの作品も「究極の愛」を扱った作品だと言えるだろう。

この「究極の愛」が、本作ではどのように描かれているだろうか。例えば、本作の主人公ポニョは、自身のピンチを助け、名前をつけてくれた宗介に好意を抱き、海底から宗介の元へ舞い戻る。「そうすけ、好き」と言いながら高波の上を疾走する姿は、あまりにも直情径行で、恐ろしさも感じてしまう。

この「愛の恐怖」を体現するキャラクターが、ポニョの母親であるグランマンマーレだろう。宮崎が明言する通り、グランマンマーレの正体はチョウチンアンコウの人魚で、交尾時にメスがオスを身体に取り込むという特殊な生態を持っている。つまり、ポニョの父親フジモトも、いずれはグランマンマーレの身体に取り込まれる運命にあるのだ。

宮崎は本作について、「神経症と不安の時代に立ち向かう作品」と述べている。ここでいう「神経症と不安」とは、経済の行き詰まりや環境危機など、世界を襲うさまざまな社会的な問題を指していると考えられる。

特に宮崎は、『風の谷のナウシカ』(1984年)以来、一貫して環境問題という「不安」を描き続けてきた作家だ。そんな宮崎が、老境に差し掛かりたどり着いた境地が「愛」と「単純さ」なのだ。子供たちの持つ愛がすべての問題を解決する…。そんな希望が、本作には込められているのかもしれない。

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