死に場所を捜す元特攻隊員・敷島浩一の
“やり残した戦争”
岡本は生前、『肉弾』について次のように述べている。
「いちばん言いたかったことは、あの戦争のために三百万人が死んだということでした。その三百万の一粒が『肉弾』なんです」
戦争をミクロな視点から描いた本作では、ゴジラの戦闘描写と同じくらいの比重で、「三百万の一粒」である敷島浩一の成長が描かれている。
元特攻隊員の敷島は、特攻の直前に逃げてしまったことや、戦火から家族を守れなかったことなど、さまざまな十字架を背負ったまま終戦を迎えている。作中では、そんな意気地無しだった敷島が再び操縦桿を握ってゴジラに立ち向かうことで、自身の罪悪感や悔恨を払拭しようと試みる。
そういった意味で本作は、敷島という一兵士の個人的な物語でもある(敷島のキャラクターが庵野が監督した『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジとオーバーラップするのは実に興味深い)。
本作が敷島個人の話であるのには、れっきとした根拠がある。例えば、ゴジラが襲来するシーンは、必ずといっていいほど敷島の気絶で終わり、続いてベッドで目を覚ますシーンに一気に飛ぶ。そのため本作では、ゴジラに蹂躙された街での救護活動やゴジラの退却のシーンは描かれていない。
また、別のシーンでは、サバイバーズ・ギルドを抱えた敷島が、今の自分が実は戦地で死んだ亡骸が見ている夢なのではないかとパニック気味に打ち明ける。つまり、突飛な解釈ではあるが、本作全体が実は敷島が見ている夢であるという解釈もできなくはないのだ。
そう考えると本作のゴジラは、戦争の象徴であるとともに、兵士たちの罪悪感や悔恨が生み出した幻影なのかもしれない。