菊次郎の成長物語ー脚本の魅力
先述の通り、本作の最大のミッションは、「正男の母親探し」だ。しかし、正男の母親探しは意外にもあっさりと終わり、あとは正男と菊次郎たちの遊びのシーンが延々と続く。そう考えると、「生き別れた家族を探す」という本作のミッションは、本来のテーマではないことになる。では、本作のテーマとは一体なんなのか。
ここで注目したいのが、本作のタイトルだ。「菊次郎の夏」というタイトルは、よくよく考えてみるとかなり違和感がある。なぜなら、菊次郎はあくまで正男の母親探しのサポート役だからだ。だから本来、本作のタイトルは「正男の夏」にならなければおかしい。菊次郎が本作の主人公でない限りは。
ーそう、本作の主人公は、実は正男ではなく菊次郎なのだ。その証拠に、本作を菊次郎視点で読み替えると「母親探し」の物語とは全く別の物語が立ち上がる。それは、粗暴な下町の親父が子どもの境遇に共感し、やさしさを獲得するまでに至る「不器用な大人の成長物語」だ。
そう考えると、本作の遊びのシーンの尺がなぜあれほど長いかも合点がいく。つまり、本作のテーマは、落ち込んだ正男を慰めることにあるからだ。しかし、子どもを慰めるといっても、菊次郎たちと正男の前には上下関係はなく、ともに無邪気にはしゃいでいる。いや、むしろ、菊次郎たちは、正男に子どものとの関わり方について教えてもらっているのだ。
2人の旅が終わり、それまで「おじさん」だった菊次郎が、正男の問いかけに対し、はじめて自分の名前を明かす。この映画史に残るラストシーンは、それまでの物語が、実は菊次郎の物語であったことを表している。