北野映画にしては普通?
時代劇の枠に収まった秀作
とはいえ、本作を観た筆者の率直な感想は、「意外と普通」というものだった。
北野は、これまで作品を通して、ヤクザ映画やコメディ映画といったジャンルを解体し、自らの作家性を構築してきた。例えば『その男、凶暴につき』(1989)では「刑事ドラマあるある」を否定することで刑事ドラマというジャンルを解体し、『ソナチネ』ではヤクザ映画を、『みんな~やってるか!』(1995)ではお笑い映画を、そして、『座頭市』では、勝新太郎が生み出した「座頭市」というキャラクターを解体してみせた。
北野は、本作の記者会見で、「大河ドラマでは描けないものを描く」と語っている。これは本作が「時代劇の解体」を試みていることを表している。確かに、本作の合戦シーンは黒澤明の『乱』(1985)を思わせる迫力だし、斬首のシーンは類を見ないほど痛々しい。しかし、総じて「戦国武将たちの攻防」というよくある時代劇の枠に行儀よく収まっており、過去作のようなジャンルを解体するほどの衝撃はあまり感じられない。
こういった「普通さ」は、本作の映像についてもいえる。脳裏にこびりつくような強烈な画があまり見られないのだ。確かに、船上の清水宗治の切腹シーンも信長が能にうっとりと見入るシーンも目をみはるほど美しい。しかし、こういった美しさには、『ソナチネ』の紙相撲のシーンや『アウトレイジ』のオープニングシーンのような意外性はあまりない(カメラマンが柳島克己から浜田毅に変わったことも大きいかもしれない)。
作品のメインテーマがはっきりしないのもいただけない。例えば本作は「戦国版アウトレイジ」というキャッチフレーズで語られることが多いが、本能寺の変以降は一気にコメディ色が強くなる。つまり、あまりにもさまざまな要素が詰め込まれているため、何を伝えたいのかいまいち伝わってこないのだ(裏を返せば、それは本作が笑いあり暴力ありの総花的エンターテインメントであることを差しているわけだが)。それに、時代劇としての分かりやすさを優先した結果、説明的なセリフや字幕が多くなっている点もいささか気になる。