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真に新しい時代劇とは

モニターを見つめる北野監督
モニターを見つめる北野武Getty Images

では、新しい時代劇とは一体何か。ヒントとなるのが、フランスの名匠ロベール・ブレッソンの『湖のランスロ』(1974)だ。

無名役者の起用や、物語のエッセンスだけを残したストイックな編集など、北野映画と比較されることの多いブレッソン。本作はそんな彼が描いた唯一の“時代劇”だ。

ブレッソンが20年近く温めていたという本作は、実は意外なほどに『首』と共通点が多い。例えば『首』が戦国武将の権力闘争を描いているのに対し、『湖のランスロ』では、円卓の騎士たちの権力闘争が描かれる。加えて、『首』では、荒木村重と明智光秀の背徳的な蜜月が描かれるのに対し、『湖のランスロ』では、円卓の騎士ランスロと王妃グニエーヴルとの不倫が描かれる。また、ネタバレになるので詳述は避けるが、甲冑をつけているので個人を特定できないという描写も、『首』と類似している。

極めつけは死体の描写だろう。『首』が山の中で斬首された武士の骸から始まるのに対し、『湖のランスロ』では森の中で騎士が斬首されるシーンで幕を開ける。また、殺された騎士の死体が森の木に括り付けられているというシーンも、甲賀の里の忍者たちの死体が竹林の竹に括り付けられているシーンと酷似している。

しかし、『湖のランスロ』には、『首』と決定的な違いがある。それは、合戦シーンがほとんど登場せず、騎士たちの日常の会話シーンのみで、男たちの友愛の共同体の崩壊が描かれている点だ。

別に、『湖のランスロ』ほど尖った作品を望んでいるわけではないし、そんな作品を今の世の中で作ったら、ヒットは到底望めないだろう。しかし、合戦シーンや秀吉たちの権力闘争のシーンを極力削り、サム・ペキンパーの『ガルシアの首』(1974)よろしく「武将の首」というマクガフィン(物語を進めるための無意味なアイテム)をめぐる争奪戦を主軸に据えていたら―。本作は真に新しい時代劇になりえたかもしれない。

―さて、いささか厳しい評になってしまった。しかし、勘違いしないでいただきたい。筆者としては、御年76歳の北野にはクリント・イーストウッドや宮崎駿同様、元気に撮り続けてもらうことが何よりの僥倖なのだ。

日本映画界の生ける伝説・北野武。その新作を映画館で観る喜びを、ぜひとも噛みしめてほしい。

(文・司馬宙)

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