人間の業を描いた“喜劇”ー脚本の魅力
本作の原作となった『リア王』は、王位を譲った三人の娘から裏切られたブリテンの老王リアを描いた作品で、虚飾をまとった人間の顛末を描いたシェイクスピア4大悲劇のひとつと言われている(黒澤は1957年にすでに4大悲劇のうちの一つ『マクベス』を原作に『蜘蛛巣城』を制作している)。
さて、そんな本作を原作とした『乱』が「喜劇」だといえば驚かれる方も多いだろう。カギを握るのは、秀虎に追従する道化師、狂阿弥だ。
池畑慎之介(ピーター)演じる狂阿弥は、物語の冒頭で武士たちを笑わせる愚かな存在として登場し、下っ端の武士たちを笑わせては秀虎に怒鳴られる、つかみどころのない人物として描かれている。
しかし、物語中盤、息子たちに裏切られた秀虎が廃人になると立場が反転する。狂人扱いされていた狂阿弥が、今度は狂った秀虎を介抱するのだ。
「狂った今の世で気が狂ったなら気は確かだ」
「天と地がひっくり返った。前におれが狂ってこいつ(秀虎)を笑わせ、今はこいつが狂っておれを笑わせる。(…)お前は勝手にバカを言う。俺は勝手に本当を言う」
こういった狂阿弥の言動は、「アイロニー」という表現に該当する。「アイロニー」とは、真実を隠すために無知なふりをする状態を表した言葉で、日本語では「皮肉」を意味する。
そして「アイロニー」は、本当に無知な人間を笑う喜劇のいちジャンルでもある。例えば、哲学者の千葉雅也は、『勉強の哲学』で、「その場のノリ」をずらそうとするユーモア(ボケ)に対して、「その場のノリ」を疑って批判するアイロニーを「ツッコミ」だと述べている。
思えば、本作の登場人物はみな極端に戯画化されており、どこか滑稽だ。太郎、二郎、三郎というネーミングも武将にしては安直だし、秀虎の白塗りも志村けん扮する「バカ殿」のようにどこか滑稽に思えてくる。
―そう。本作は、黒澤明が仕掛けた壮大なコントなのだ。そう考えると、中盤、荒廃した城から廃人になった秀虎が出てくるといういささな不自然な展開も「爆発オチ」のように見えて来やしないだろうか。
では、悲劇と喜劇の違いとは一体何か。これに答えを与えてくれるのが、かの喜劇王チャップリンだ。彼は、「人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇である」という名言をのこしている。つまり悲劇と喜劇は、対象を見る視点で変わるのだ(現に黒澤は、本作を、前作の『影武者』と比較し、「『影武者』は地の視点、『乱』は天の視点」から描いた作品だと語っている)。
さて、最後に、秀虎の「モデル」となった人物について紹介しよう。それは実は黒澤自身だ。証拠は一文字家の家紋。なんと三日月と太陽で構成されている。つまり黒澤明の「明」だ。
1970年代後半の黒澤は『赤ひげ』(1965)の失敗に伴う莫大な借金やハリウッドとの合作『トラ・トラ・トラ!』(1970)の監督降板など、数々の問題を抱え苦境に陥っていた。そして、『どですかでん』(1970)の更なる興行的失敗が追い打ちをかけ、翌年にはついに自殺未遂までしてしまう。
映画界の進化についていけず金ばかりを要求する老監督―。そんな当時の黒澤のパブリックイメージに秀虎の姿を重ねるのはやぶさかではないだろう。本作は、黒澤自身が手掛けた「自虐ネタ」なのかもしれない。