庵野秀明の“傷ついた者の声”に注目〜演技の魅力
本作の配役の注目は、なんといっても主人公二郎役に庵野秀明を起用したことだろう。
『新世紀 エヴァンゲリオン』の監督として知られる庵野。自ら声優や役者の演出も手がけている彼だが、声優としての出演は本作が初めてである。
また、彼自身も、当初は零戦の飛行シーンの作画スタッフとしての参加を要請されており、声優としての参加と知った時に大いに困惑。しかし、宮崎の再三のお願いにより出演を決めたという。
では、なぜ宮崎は彼を起用したのか。宮崎は、メディア向けの完成披露試写会で、次のように語っている。
「現代で一番傷つきながら、生きてるんですよ。その感じをもっていたからです。それが声に出てるんで。角が丸くなったり、ぎざぎざしてるんですよ。」
さて、宮崎の言う「傷つきながら生きている」とは一体どういうことなのか。
キャスティングの際、二郎の声優に「素人くささ」や「人間味のなさ」を条件に挙げていたという宮崎。二郎に当てられた庵野の声には、確かにキャラクターの内面の表現が著しく欠けている。
しかし、いやだからこそ、内面をうまく表現できないものの不器用さや美しさに極端なまでにこだわる二郎の孤独が伝わってくる。つまり「傷つきながら生きている」とは、他者とうまく情緒的交流が図れず、常に心にわだかまりを持ちながら生きていくことと思われる。
なお、本作にはもう一人、素人の声優が起用されている。それが、二郎が軽井沢で邂逅するドイツ人・カストルプである。
一部ではソ連の有名なスパイ・リヒャルト・ゾルゲをモデルにしたのではないかと言われるこの人役に、スタジオジブリ海外事業部取締役部長であるスティーブン・アルパートを起用。おそらくこの役が持つ不気味さや内面の読めなさも、プロの役者や声優では難しかっただろう。
主人公の婚約者であり、肺結核を患う薄幸のヒロイン・菜穂子の声を演じるのは女優の瀧本美織。透明感のある声で儚げな雰囲気を上手く体現している。
菜穂子は架空のキャラクターだが、モデルとなったのは堀辰雄の妻であった矢野綾子だとされている。彼女は当時の女性としては珍しく160cm以上の長身で、目鼻立ちがくっきりとした美少女として知られていたが、結核に罹患し、若干24歳で亡くなっている。ちなみに堀辰雄は彼女を生涯に材をとった『菜穂子』という長編小説を著している。彼女の実像に興味のある方は一読をお勧めする。