ザ・マスター 演出の魅力
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007)で賞レースを席巻したポール・トーマス・アンダーソン(以下、PTA)が5年の沈黙を破って撮り上げた渾身の一作は、第二次世界大戦直後のアメリカを舞台に、元海軍兵士の男と新興宗教の教祖の交流を描く、破格のスケールを持ったヒューマンドラマ。
美学的に高い完成度を示すショットの断片は有機的に絡まり合うことなく、ゴロっと無造作に投げおかれ、フレディが女性を象った巨大な砂人形と性交する姿や、青々とした海の前で自慰にふける様子は突き放すようなタッチで描かれている。PTAの演出は観客が主人公の内面に安易に共感を寄せることを禁じているようだ。
そんな主人公に唯一理解を示す存在は、新興宗教「ザ・コーズ」のマスターことランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)である。フレディとドッドの交流が描かれるようになると、映画に一本の芯が通り、断片的であった映像群はまとまりを見せはじめる。
鋭利なカットバック(向かい合う両者の顔を交互に見せる撮影技法)で示される両者の対話は、さながら言葉を使った殴り合いであり、トッドの言葉を浴び続けたフレディの表情は終盤に至るにつれて柔らかいものへと変化する。しかし、それは試合に臨むボクサーが相手の拳を受けることによって物理的に顔を変形させるのとは異なり、内面の変動を通じた、言葉では定義しがたい秘められた変化である。
終盤ではトッドの妻・ペギー(エイミー・アダムス)がフレディに「集中力を高める訓練」を施すシーンが用意されている。グリーンの瞳の持ち主であるペギーに「瞳の色を変えて」と告げられたフレディは意識を集中させ、彼女の瞳を青や黒へと自在に変化させるのだが、このシーンはある意味で本作の“解説”となっており、興味深い。
その心は「個々の映像は決して画一的ではなく、観る人が解釈を加えることによって、初めて意味をなす」といったところだろうか。観客に明快な意味を押し付けるのではなく、多様な解釈に開かれた曖昧な映像を突きつける本作は、惨憺たる興行成績が示しているように、万人ウケはしないだろう。しかし、映画表現の未知の領野を切り開く野心作として歪な輝きを放っている。