賛否両論の結末を深掘り考察
③ Qアノンや終末論カルトに接近する結末の危うさ
原作の設定を引き継いだ部分が大きいとはいえ、ゲイのカップルが養子に希望を託す様をあからさまに肯定するシャマランの身振りには、違和感を抱く向きもあるだろう。
彼が肯定するエリックの選択は、たとえばリー・エーデルマンが「再生産未来主義」の典型例として厳しく糾弾する、子供と未来に無条件に価値をおく発想が反映されたものに過ぎない。*1 だが、それ以上に注意を払うべきなのが、「目覚めた」人間たちの協力をどう描くかという視点だ。
『レディ・イン・ザ・ウォーター』では、突飛な妄想にも見えるビジョンを共有した住人達の協力によって、ブルーワールドからマンションに迷い込んだ少女ストーリー(ブライス・ダラス・ハワード)は無事故郷へと帰ることができた。微笑ましい御伽噺、いびつなファンタジーとして作られた同作では、協力の物語は無害だからこそ感動を誘うものだった。
しかし、サインを信じる人間たちの協力という枠組みはそのままに、無実の人間の多数の犠牲を伴う形で協力が実現する本作は、鑑賞後のわれわれに同作よりも格段に後味の悪い印象を残す。
もちろん、振り返れば『アンブレイカブル』(2000)のイライジャ=ミスター・ガラスはすでに、「目覚めて」しまったがゆえに列車事故を引き起こしたテロリストとして描かれてはいた。
しかし、若干の曖昧さを残してはあるものの、エリックと黙示録の四騎士が力を合わせて終末の到来を防いだ、と判断されても仕方のない形で映画を閉じるというシャマランの選択は、最終的に現在進行形の問題を引き起こしているQアノンや終末論カルトが語る物語は真実であった、という危険すぎるメッセージを伝えていると解釈されても仕方のない要素を多分に孕んでいる。