賛否両論の結末を深掘り考察
④ 目覚めた後に何ができるのか
いかにカルトを全肯定しているわけではないことを示す、先述した新たなサスペンス演出が随所で効いているとはいえ、この結末に寄せられた批判は、多くが一定の正当性を有していると言わざるを得ない。*2
だが、そもそも建国期のピューリタンの時代から、信仰と結びついた選民思想とテロリズムは切っても切れない関係にあったわけで、本作の結末は、狙った演出かはともかく、そうしたアメリカ史の暗部と現代の宗教右派のつながりを連想させもする点で、スリラーとしては実に恐ろしく、こう言ってよければ「面白い」。
そして、明らかにシャマラン映画の根底には、リベラル派として求められるさまざまな配慮や、設定の些細な辻褄を整えること以上に、新作を撮るたびに、その時点の自らの心境を素直に反映させた物語を広く世に伝えたいという、子供じみたものでありつつも単純で純粋な欲望が存在することもまた見逃せない。
「安心してください、信じてますよ」と言っておけばなんとかなると思っているかのような「とにかく明るい」発言*3 を見るに、自身が語りたいストーリーと原作の設定の齟齬に、今回の彼がどこまで自覚的であったのかは定かではない。
ただ、おそらくシャマランには第一に、ビジョンのバカバカしさを念入りに演出した後で最後に再び「収束」の構造を用いることで、『ヴィジット』以降に繰り返し光を当てられてきたテーマ——「目覚め」そのものよりも目覚めた後に何ができるのか*4——を強調する形でエリックの選択と行為を表現したいという意図があったと思われる。
さらにここには、より近年のシャマラン自身に起きた変化としてきわめて重要な、ウェン同様の養子を含む娘たちの父親でもある自身から見た、次世代への継承という主題が重ねられてもいるだろう。