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賛否両論の結末を深掘り考察

⑤ 近年のシャマラサン作品で描かれる「犠牲の精神」

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車を持ち上げる男の映像が拡散される『ミスター・ガラス』(2019)のラストシーンを嚆矢として、いまや50代を迎えたシャマランは明らかに、もはや「信じる者」自身よりも彼らの後に残される者たち、すなわち次世代の「救済」へと主要な関心を移しているように見えるのだ。*5

自らを犠牲にして血縁関係のない大切な家族を救おうとするヒロイックな行為は『サーヴァント』でも形を変えて描かれており、現在のシャマランが自らを投影しようとする物語の核心が、この自己犠牲の精神にあることは間違いない。

もちろん、こうした主人公たちの選択に対し、キリストを気取っているのかとツッコミを入れることは簡単だし、逆に親としてのシャマランに起きた変化に感じ入る者もいるだろう。

しかし、いずれにせよ、結末部の選択そのものへの賛否は別として、小屋を後にしたアンドリューとウェンが四人組の残した車に乗り込む場面には、誰もがシャマランの演出家としての成熟を感じざるを得ないはずだ。

まず車に残されたIDなどの手がかりから、四人が実際にはほとんど嘘をついていなかった事実がさりげなく明かされる。そして、フロントガラスの手前から座席についた二人を正面から捉えたカメラが、車のステレオにスイッチを入れるアンドリューを映し出す。そこから流れてくるのは、家族三人の楽しい思い出が詰まった、KC and The Sunshine Bandの‘Boogie Shoes’だ。

シャマラン自身、「彼とエリックがウェンに教えようとした生きることの喜びを表現する曲であり、少し馬鹿げたものである必要があった」と語るこの能天気な一曲*6 が、多くの犠牲を強いられ憔悴しきった今の二人が置かれた状況にぴったりとはまるわけはない。*7

そもそも、ゲイを狙い撃ちしにきた異常者たちにしか見えなかった四人が、なぜこの曲を聴いていたのか。呆然としたアンドリューは、スイッチを止める。しかしながら、同時にこの曲はなによりも二人の未来を見守るエリックの存在を感じさせるものでもある。そこで今度はウェンがスイッチを入れるが、やはり曲を聴き続けることはできない。*8

深刻さと馬鹿らしさ、必然と偶然の間で揺れ続けてきた映画の展開をなぞるかのように、この底抜けに明るい楽曲は、停止と再生を繰り返される。だが、それでも最後には、懐疑と不信を代表する人物として最後までサインを信じていなかったはずのアンドリューこそが、この符合を必然のものとして受け入れるかのように、再び再生ボタンに手を伸ばす。

こうして、大惨劇直後の車内、そして映画館には、場違いでご機嫌なメロディがまたも流れ始める。 しかし、もう二人が停止ボタンを押すことはない。デビューから三十年を迎えた現在のシャマランの独創性は、この優しさとくだらなさと苦みに溢れた、笑い泣きを誘うささやかな演出にこそ、もっともはっきりと現れているだろう。


*1 詳しくは、Lee Edelman, “The Future Is Kid Stuff,” No Future: Queer Theory and the Death Drive, Duke UP, 2004, pp. 1-32.を参照。

*2 たとえばリチャード・ブロディは、原作にあった反抗という要素が抜け落ちた、運命を受け入れることを説くような反―反抗映画としての結末に、Qアノンに親和的な危うさを見出している。Richard Brody “Knock at The Cabin,” Reviewed: Be Nice to The Qanoners, or They’ll Do an Apocalypse.” New Yorker, Feb 6, 2023.また、高橋ヨシキは主に福音派エンタメ映画と本作の類似を厳しく批判している。高橋ヨシキ+てらさわホーク+柳下毅一郎、「『ノック 終末の訪問者』とシャマラン映画の黙示録」BLACKHOLE、Apr 21, 2023. https://www.youtube.com/watch?v=N7-vC68zFoU 。

*3 Jordan Moreau “‘Knock at the Cabin’ Team Breaks Down That ‘Dark‘ Ending: Why the Film Changed the Book’s Finale” Variety, Feb 3, 2023.
https://variety.com/2023/film/features/knock-at-the-cabin-ending-explained-book-differences-1235510694/
ここで彼は悪びれずに、「僕は概して楽天主義者で、だからこそ本当に凶悪なことができる。観客はそれがニヒリスティックではない人間によって行われたことだと感じるんだ。あなたたち観客が、(この映画の)語彙は、自分を傷つけようとする人物によるものではないと感じられるからこそ、僕は無茶ができるんだ」と述べている。

*4 詳しくは、『ヴィジット』とドラマ『ウェイワード・パインズ』第1シーズン(2015)について論じた拙稿、「ミステリとアメリカ」『ジャーロ』第55号、2015 年、468-71頁を参照。 https://note.com/t_m_r/n/n9d5b2914c501

*5 Jones, Collider. このインタビューの冒頭でシャマランは、これから自分の映画をはじめて観る新しいファンに対して、まずどの映画を観るよう勧めますか?という質問に対して、「撮った順に観てほしい」とまるで答えになっていない返答を行っているが、その理由として、「これまでの映画はいずれも、幼少期から現在に至るまで辿ってきた異なる動きのなかで、自分をその都度表現したものであり、ある作品は他の作品へのある種の反応や、ある地点から次の場所への移行となってもいるからだ」と語っており、作風の変化には自覚的であることが伺える。

*6 Robert Vaniz Jr. “M. Night Shyamalan Reveals Why ‘Boogie Shoes’ Was the Perfect Song for ‘Knock at the Cabin’” Showbiz Cheat Sheet, Feb 17, 2023.
https://www.cheatsheet.com/entertainment/knock-at-the-cabin-boogie-shoes-song.html/

*7 関連して、アンドリューがエリックを両親に紹介する場面の背景に流れるアレサ・フランクリンの “Ac-Cent-Tchu-Ate the Positive”は、その後物語が原作を離れてポジティヴなものへと改変されていくことをあらかじめ示す役割を果たしているように思える。楽曲の含意については、「シャマランのけじめと祈り『ノック 終末の訪問者』感想」『紙の類』Apr 15, 2023. も参照。https://kaminotagui.hateblo.jp/entry/2023/04/15/125924

*8 Moreau, Variety. シャマランは信じ難いことに、おそらくは曲名「ブギー・シューズ」に引っかける形で、この映画の「最後にもっとも大事なのは、誰もが登場人物たちの靴を履くことなんだ」、と語ってもいる。たとえば、宗教右派やカルト教団の信者、ゲイに差別的な人間にも、そうした状況に陥った何らかのきっかけがあったはずで、彼らが怪物であるかのように扱うのではなく、可能な限り共感を持って接するべきだ。散々惨劇を見せられた後で、そんなシンプルな主張をセリフで説明されれば卒倒してしまうところだが、このシーンでは全てが曲を流すか止めるかというアクションに集約されており、それゆえに観客は、劇中の二人同様に躊躇いながらも、シャマランの真っ直ぐすぎるメッセージをなんとか受け止めることができるだろう。ちなみに、近年しばしば「他者の靴を履く」という比喩で説明される「共感empathy」の価値については、映画の前半、ウェンのお気に入りのアニメStrawberry Shortcake: Berry in the Big Cityをはじめて見たレナードに、このアニメは「共感empathyと寛容を教えてくれる」と唐突に語らせるという形で、映画本編でも言及がある。この点については、「シャマランのけじめと祈り」を参照。

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