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自動車は映画のメタファー!? 型破りな演出の魅力

『気狂いピエロ』撮影現場で演出中のジャン・リュック・ゴダール
気狂いピエロ撮影現場で演出中のジャンリュックゴダールGetty Images

1959年に『勝手にしやがれ』でデビューして以来、豊富な映画史的な知識に裏打ちされた作品づくりで、世界の文化人に刺激を与え続けたフランスの映画作家、ジャン・リュック・ゴダール(1930〜2022)の代表作の一本。

長く充実したゴダールのキャリアの中でも、ターニングポイントとなる作品であり、『勝手にしやがれ』(1959)『女は女である』(1961)の実験性とコメディセンスに加え、『ウィークエンド』(1967)以降に全面化する、人生に対する悲観的で辛辣な視点も備えている。

退屈な日常からの逃避行を描く前半は、疾走感あふれるタッチで描かれる。一方、愛の喪失と裏切りを経て、破滅へと至る後半はメランコリック(憂鬱的)なトーンが画面を支配する。本作では、ゴダール作品特有の二面性が、物語の前半と後半を引き裂く形であらわれているのだ。

役者のアクション、色彩と光、カメラワーク、編集のリズムなど、映画を構成するすべてのファクターが突出した個性を放ち、観る者を混乱に陥れると同時に、強く魅了する。自動車に関する描写ひとつとっても、卓抜した演出センスがうかがえる。

主人公・フェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド )と元恋人のマリアンヌ(アンナ・カリーナ)は、とあるパーティで偶然再会すると会場を抜け出し、走行中の自動車の中で久しぶりに言葉を交わす。車の周囲は夜の闇に包まれて真っ暗である。赤、青、黄、緑のライトが交互に2人の表情を照らすことで車の前進運動が表現されているのだが、それによって強調されるのは、2人が暮らす都市の人工性と停滞感である。

その後、ふとしたきっかけで殺人事件を起こし、パリから離れることになった2人は、盗難車を乗り継いでフランスを南下する。舞台が南に移り、ロードムービーとしての側面が強くなると、フェルディナンとマリアンヌが乗った車は緑豊かな風景の中で、運動感たっぷりに描かれることになる。

右からアンナ・カリーナ、ゴダール、ベルモンド。自動車を使った演出が光る
右からアンナカリーナゴダールベルモンド自動車を使った演出が光るGetty Images

シルバーのオープンカーに乗り込んだ2人が、まばゆい太陽光を浴び、風に髪をなびかせながら会話をするシーンは、前半の夜のドライブシーンと好対照をなしている。また、このシーンでは、映画の虚構性を暴き立てるような、挑発的な演出が見られる。ハンドルを握るフェルディナンが、会話の途中で突然カメラの方を振り返り、観客に向かって話しかけるのだ。その後、マリアンヌもカメラを見て観客に目配せをすると、何事もなく会話を続ける。

風景を切り裂くように疾走し、男女が親密な言葉を交わし、時にはベッドとなって交情の舞台となる一方、殺人や裏切りが行われ、絶望の舞台ともなる。『気狂いピエロ』において、自動車は映画のメタファーであり、観客はその素早い運動に置いていかれないよう、必死に視線をこらさなければいけない。

映画史上最も車を魅力的に描いた作品である本作は、生涯に渡って映画への深い愛と絶望を表明し続けたジャン・リュック・ゴダールの代表作であり、入門編として打ってつけの一本である。

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