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「日本は最高の映画学校だった」
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督インタビューより

映画『2001年宇宙の旅 』
映画2001年宇宙の旅Getty Images

―――ケベック州の小さな村で育ったあなたの映画製作への意欲を生んだ作品はなんですか?

「スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』(1968)の冒頭で、私は半分魅了され、半分トラウマになりました。子供の頃に見た映画のほとんどはテレビでの放送でした。

とある映画の新聞広告を見て、両親に『これが見たい』と言ったのを鮮明に覚えています。それは『スター・ウォーズ』(1977)です。私はその詩的な世界に衝撃を受け、映画への扉を開けました。同様にスピルバーグの『激突!』(1971)や『未知との遭遇』(1977)にも衝撃を受けました」

―――10代の頃、あなたは友人と一緒に『デューン』の絵コンテをデザインしていました。その時点で自分の将来は決めていたのですか?

「そう、当時の私たちはとても傲慢で、見栄っ張りのティーンエイジャーで、それが究極の夢でした。当時はカメラもなかったから、私が物語を書いて、親友のニコラス・カディマがそれを描いていた。映画とSFの魅力は、私が『デューン』に出会ったのと同じ時期に生まれたんです。砂漠の奥深く、異文化の中で故郷を見つける青年の旅には、私の心を揺さぶる何かがあったのです」

―――モントリオールで映画学校に通い、その後、世界各地で短編映画を制作して実戦経験を積まれました。授業よりも海外で学びになったことの方が多かったのですか?

「映画制作のイロハを教えてくれる強力な先生もいましたが、18歳から25歳までの8人がカメラだけを持って半年間世界中を旅するというテレビ番組に参加するチャンスに恵まれたんです。当時はインターネットもなかったから、本当に冒険でした。

6~7カ月間一人で旅をし、毎週3~5分の短編映画かドキュメンタリーを作って全国ネットのテレビで放映する必要があったのです。プロフェッショナルなものではなかったが、完全な自由がそこにありました。

北米の外に出たことのなかった私は、根底から揺さぶられました。22歳の時、短編映画を撮るために日本に足を踏み入れたのですが、日本は間違いなく最高で最も重要な映画学校だったことを覚えています」

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