「妄想」と「現実」を異なる映像スタイルで巧みに表現~映像の魅力
本作の「現実パート」と「妄想パート」では、映像の演出もはっきりと差別化されている。
まず、「現実パート」は、「ドグマ95」にならい、手持ちカメラで撮影されている。また、照明も自然光がメインで、編集もかなり乱暴。セピア調の画面と単調な日常が、陰鬱な雰囲気を醸し出している。
一方「妄想パート」は、固定カメラで撮影され、映像の彩度も上がっている。また、ダンサーも数々登場し、一気に画面が華やかになる。
しかし、本作では、フィルムで撮影されていることもあり、どこかドキュメンタリー感が拭えない。手持ちカメラで撮影される「現実パート」はいざ知らず、ミュージカルシーンが繰り広げられる「妄想パート」も、まるで「舞台上のパフォーマンスを撮影したドキュメンタリー」のように感じられるのである。
トリアーが後に『ドッグヴィル』や『マンダレイ』で簡素な舞台上での演技を映画として撮影したことを考えると、彼は本作をフィクションとしてではなく、「役者がフィクションに興じるドキュメンタリー」として描きたかったのかもしれない。
ちなみに、ダンスシーンでは取りこぼしを防ぐために100台もの無人カメラを設置したという。とりわけ、セルマとジェフが貨物列車を伝いながら踊るシーンは圧巻。北欧の風景も相まって、実に美しいシーンに仕上がっている。