”ウソの日誌”をめぐるどんでん返しー脚本の魅力
作中では、アンジャーとボーデンの「騙し合い」にプラスして、マジシャンとしての人生に伴う2人の犠牲が描かれる。
ボーデンは、「銃弾掴み」のマジックで指を2本失い、妻のサラを自死で失う。また、アンジャーは、マジック中の事故で妻のジュリアを失う。そしてラストでは、ボーデンが実は「半分の人生」しか生きていなかったこと、アンジャーが瞬間移動のマジックが無数の犠牲を伴っていた驚愕の事実が明らかになる。
芸術のために人生を犠牲にするというテーマは創作物ではおなじみのテーマであり、命を賭けるとまではいかないまでも、仕事のために家族との時間を犠牲にしたり青春の貴重な時間を勉学にささげたりといったことはよくある話だ。
とはいえ、このテーマを描くのであれば、芥川龍之介の『地獄変』のように画家や音楽家といったクリエイターを主人公に据えた方がわかりやすいし、ノーランがなぜマジックを選んだのかの説明はつかない。いったいなぜノーランはマジックという難解なテーマを選んだのか。
ヒントとなるのは、ノーランが最後のマジックで使った「瞬間移動装置」だ。彼がテスラから譲り受けたこの装置は、実際には「身体複製装置」であり、マジックを行うごとに余剰のアンジャーが生まれては犠牲になっていっている。
複製。勘のいい人ならお気づきだろう。この装置、実はカメラそのもののメタファーになっている。
周知の通り映像は、現実をカメラによって複製したもう一つの現実でありイリュージョンだ。しかし観客の目に映るのはそのプロセスのほんの一部であり、その背後には膨大な数の犠牲と労力がある。つまり本作は、映画のイリュージョンとその犠牲をめぐる「メタ映画」なのだ。
さて、本作が「メタ映画」であることを念頭におけば、本作の難解さも理解できる。
ヒントとなるのは、アンジャーとボーデンが交わし合う日誌だ。あらすじからも分かるように、本作の脚本は、アンジャーを殺した罪でボーデンが逮捕される「現在」を起点に、獄中で彼がアンジャーが記した日誌を読み解く形で「過去」が紐解かれていく。
しかし中盤、この日誌が実はアンジャーがあえてボーデンを陥れるために書いたものであることが判明する。日誌の中のアンジャーが、ボーデンに「死刑を待っている君は、独房で俺の日誌を読んでいるだろ」と語りかけるのだ。
日誌をめぐるどんでん返しは、物語の中盤にも組み込まれている。アンジャーの妻オリビアが、ボーデンの手品のタネを盗む「スパイ」としてボーデンのもとに送り込まれるシークエンスだ。このシークエンスは、主に以下の3つのシーンから構成されている。
①オリビアがボーデンのもとを訪れ、「アンジャーに秘密を探れと言われてやってきた」と伝える。
②ボーデンがアンジャーの瞬間移動の替え玉に酒を飲ませ、アンジャーの手品を台無しにする。
③オリビアがアンジャーに「ボーデンの日誌を盗んだ」ことを伝え、彼の日誌を手渡す。
しかし、この展開には続きがある。ボーデンの日誌を読んでいたアンジャーが、オリビアが自身をマジックのための道具として扱うアンジャーを心底軽蔑し、ボーデンへの忠誠を誓っていたという記述を見つけるのだ。日誌を記したボーデンが物語をかく乱する「信頼できない語り手」であることが明らかになる。
こういった時間操作を使った「トリック」は、直線的な時間軸では表現できず、出来事を反復する回想の時間軸によってしか表現できない。つまり、ノーランは、複雑な時間軸をあえて採用することで、編集によって自らイリュージョンを生み、映像そのものの魔術性を自己言及的に表現しているのだ。
そしてそれは同時に、今わの際のアンジャーがボーデンに投げかける以下の言葉のように「真実」に飽きたわれわれ観客を騙すためにノーランが仕掛ける「映画」という名のマジックでもある。
「観客は真実を知ってる。世界は単純でみじめですべて決まり切ってる。だから、彼らを騙せたらたとえ一瞬でも脅かすことができれば、そのとき、君も素晴らしいものを見る」