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「無謀なことに挑戦できる時代だった」
胸に刺さった浜田省吾からの言葉

プロデューサーを務めた岩熊信彦さん写真宮城夏子

―――岩熊さんの、ご尽力も気になります。

岩熊「僕も30代であった当時、このライブのプロデューサーとして関わっていたんです。なので、35年の時を経て、この映画のプロデューサーを務めるということは、感慨深いですね。今の技術がないと成り立たない映像ですし、5~10年前だとできなかったことが、2023年に出来上がったことを、とても嬉しく思います」

板屋「1988年、観客動員5万5千人という日本最大級の野外ライブに、フィルム1巻につき11分しか撮れない13台のフィルムカメラで挑む!というなかなか無謀な挑戦でした。

会場下見の時に、年上のカメラマンが『板屋!カメラ、100台持ってこーい!』と隣で叫んでました(笑)。ステージ上のイントレ(映画やライブなどで使われる、移動式の足場)の一番上に人付きのピンスポットがずらっと並んでいたり、その巨大なイントレが乗っている滑車がリハーサルで何度も破損して、ステージスタッフが何日も徹夜してそれを修理してリハーサルなしで本番に突入したりと、今では考えられないパワーでしたね。

実際、僕も撮影のトラブル対応に追われて実際のライブのことはほぼ覚えてないんです。フィルム撮影は中継車がないので、事前に打ち合わせをしているとは言え、どんな画が撮れているかもカメラマン頼みですし。覚えているのは疲労感と不安感でした(笑)」

―――映画を鑑賞して思ったのは、主役である浜田省吾さんはもちろんこと、当時のお2人を含む、制作陣の熱量が、凄まじいなと。

岩熊「良くも悪くも、無謀なことに挑戦できる時代だったんですよ、80年代というのは。しかも、それをやりきれるだろうという根拠のないパワーが、どこかにあった。

当時、こんな大規模な野外ライブなんて誰もやっていなかった時に、偶然、新聞の記事で浜松市の渚園という、5万5000人もの観客を収容できる広大な場所を知り、そこでライブができないかとすぐに企画しました」

―――映し出される観客の熱量も、現代とは質が違うと思いました。

岩熊「ネットもなく、情報も少なかった時代ですから、ライブに駆けつけるお客さんも、その場を楽しむ熱量が半端なかったのではないかと思います。しかも、バックバンドがいるとは言え、1人対5万5000人のライブですから」

板屋「今では当たり前の(自分の声や周囲の演奏音をイヤホンで聴く)イヤーモニターや、歌詞を足元で映し出すプロンプターも当時はなかったですからね。

浜田さんが一言一句歌詞を間違えていないのは驚異的に流石です。今回映画を作って感じたのですが、あの時の浜田さんはちょっとしたしぐさなどにも鬼気迫るテンションがありますね。あの瞬間を切り抜いて、現代の観客にお届けすることができて本当に良かったです」

岩熊「浜田さんは、あの時、自分が楽しむことより、パフォーマンスに徹していたよね」

板屋「浜田さんに『これは、板屋くんの作品だから、好きなように編集して。一番、エネルギッシュな時代を映画化してくれて、感謝している』と言われたのは、嬉しかったなあ…」

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