“美しいものだけを描く”というエゴイズム〜脚本の魅力
本作の原作となったのは、2009年から2010年にかけて雑誌「モデルグラフィックス」に連載された、宮崎駿による同名漫画。タイトルの由来となったのは、小説家・堀辰雄(1904~1953)が発表した自伝的小説。堀辰雄の中編小説には、重病に冒された婚約者、雄大な自然と迫り寄る死など、本作に通じるモチーフが見られるが、必ずしも忠実なアニメ化ではない。
本作が「宮崎駿のプライベートフィルム」であることを示すには、まずは本作で何が”描かれていない”のかを考えるとよいだろう。
第一に、本作には人が死ぬシーンが直接描かれていない。
例えばこれが「平成初期を舞台としたラブストーリー」であれば別に問題はない。しかし、本作の舞台は大正末期から昭和初期。関東大震災を経て日本が一気に戦争へ突き進む激動の時代である。しかも、本作の主人公は零戦の開発者。零戦の製造の背後に多くの死があったのは想像に難くない。
しかし本作では、菜穂子の死後に零戦のおびただしい残骸や戦火を通して間接的に示されるにとどまっている。
第二に、本作では、当時の社会状況への言及がほとんどない。
この点に関しては、たとえば前半に二郎が貧困層の子供にシベリアを渡すシーンなど、間接的には示唆されている。また、二郎自身、召使いをかかえるくらい裕福な家の生まれであるのに加え、国家と直接仕事をするくらいのエリートなのだから、正直なくても問題はない。
しかし、時代は昭和恐慌で、日本全体が貧困にあえいでいた時代。もう少し描写があってもいいのではないか、と思えてくる。
さて、これらの点から考えられるのは、宮崎が”美しいもの”だけを描いているという点に尽きるだろう。そして、この本作のコンセプトは、主人公・二郎の性格にもそのまま重なる。
思えば二郎は、イタリアの設計者・カプローニに憧れ、美しい飛行機づくりに邁進している。加えて彼は、菜穂子を見ても、「きれいだよ」の一点張りである。
つまり彼は、ひたすらに美を追い求める求道者であり、美のためならば、正直飛行機が殺戮に使われようがどうでもいいのである(この点、本作は「セカイ系」的な要素も持ち合わせている)。こう考えると、物議を醸したタバコの描写も、二郎なりの「心中」だったのではないか、と合点がいくことだろう。
さて、そんな二郎に対置するキャラクターが本作では用意されている。それが親友の本庄である。
徹底したリアリストである本庄は、ことあるごとに「矛盾」について語る。
「貧乏な国が飛行機を作りたがる。それで俺たちは飛行機が作れる。矛盾だ」「本腰を据えて仕事をするために所帯を持つ。これも矛盾だ」といったように。ここには、理想に走るのではなく、社会と折り合いをつけ、良い仕事をしようとする真摯な態度が見受けられる。
飛行機を通してこの国の発展に貢献しようとする本庄。その目には、近眼の二郎には見えない、全く違う世界が映っていたに違いない。