肉欲・支配欲・知識欲
人間の欲望をモチーフに組み立てられた複数のエピソード
映画ファンであれば、ジョージ・ミラーの新作と聞いて、第88回アカデミー賞で最多の6部門を受賞した『マッドマックス 怒りのデスロード』(2015)の興奮を蘇らせる人も多いだろう。
もしかしたら、前作の記憶を引きずったまま、本作の画面に向き合うと、一つの物語から別の物語が生まれ、その過程が連綿と続いていく本作の悠々とした映像のリズムに物足りなさを覚えるかもしれない。一方、本質的な部分で前作と本作には共通点がある。
ジョージ・ミラーは、『マッドマックス 怒りのデスロード』を構想する際に、神話学者ジョゼフ・キャンベルによる著書『千の顔を持つ英雄』から受けた影響を公言しているが、同書は、世界各国に古くから伝わる神話や民話を集め、それぞれに登場する「英雄」たちの冒険を比較し、その基本構造と共通点を明らかにすることで、物語を生み出した人間の内面を浮き彫りにするといった内容をもっている。
お気付きのように、同書の試みは、ティルダ・スウィントン扮する主人公・アリシアの仕事にほぼそっくりそのまま引き継がれている。
『千の顔を持つ英雄』で素描される英雄譚の「内容」にインスピレーションを受けて制作されたのが前作だとすれば、物語を分析する手法や「形式」にフォーカスしたのが、本作であると言えるかもしれない。『マッドマックス 怒りのデスロード』と『アラビアンナイト 三千年の願い』は、外見は似て非なるものの、インスピレーションの源と精神性を同じくする双子のような関係なのだ。
話を戻そう。魔物の幻想に襲われ気を失ったアリシアだったが、程なくして復調。バザールの土産物屋で青と白の螺旋模様の入ったガラスの小瓶を購入する。
ちなみに小瓶は「ナイチンゲールの目」という名を持ち、原作のタイトルの一部でもある。ホテルの洗面所で小瓶を洗っていると、蓋がはずれ、中から出現したのはなんと巨大な黒い魔人である。空港や講演会でアリシアに付きまとった魔物たちとは異なり、彼は紳士的であり、自らの名をジンと告げると、物珍しそうに部屋を見渡し、液晶テレビに映る在りし日のアルベルト・アインシュタインをつまみ上げる。
有史以来最高の物理学者が、ジンの手のひらで慌てふためく様子がユニークなのは、科学に対する物語の復権という本作の重要なテーマが、視覚的に且つユーモラスに描かれているからに他ならない。
その後、人間の姿になったジンは、アリシアに対し、「解放してくれたお礼に3つの願いを叶えてあげよう」と申し出る。自分の欲望が原因で3度も瓶の中に閉じ込められたというジンは、アリシアに向けて身の上話を始める。彼が語る3つの物語を詳述する余裕はないが、それぞれのパートは、主人公となる人物の欲望に応じて独自の主題を形成している。
「ジンの忘却」と題された最初のエピソードでは「肉欲」がフィーチャーされ、2番目のエピソード(「2人の兄弟と大女」)では、暴力と「支配欲」、天才的な頭脳を持つ女性を主人公に据えた3番目(「ゼフィールの行動の結果…」)では「知識欲」にまつわるエピソードが語られる。
それぞれのエピソードは、人間の欲望がダイナミックに交錯する中、願いを叶える存在であるジン自身の欲望が加わることで、破滅的な色合いを強めていく。
人間の欲望にまつわる3つの物語という名の旅から帰還し、舞台がホテルの一室に戻ると、いよいよ4番目のエピソードとして、「十分に幸せな独りぼっち女」であるアリシアの願い事(欲望)が描かれる。ここから先の展開はぜひ映画館に足を運んで、各自の目で確かめていただきたい。
とはいえ、本稿を閉じる前に、アリシアの願い事を考える上で重要なポイントに触れておきたい。アリシアは、ジンの登場以前から、自分にしか見えない魔物の出現に煩わされており、魔物の存在は彼女の心に巣食う混乱や不安の”隠喩“(象徴)であると先に述べた。では、隠喩としての魔物を呼び寄せる原因、つまり、彼女の心に住み着く不安の正体とは一体何なのだろうか。我々がそれを知るためには、彼女が語る物語に耳を傾けるしかない。
「人の心を知るためには、『科学の語り』だけでは十分ではなく、『創作の物語』が必要なのだ」。108分に及ぶ充実した物語=旅を終え、座席から立ち上がる頃には、ジョージ・ミラーからのメッセージが脳裏に深く刻まれていることだろう。
(文・山田剛志)
【作品情報】
監督・脚本・製作:ジョージ・ミラー
出演:イドリス・エルバ、ティルダ・スウィントン
2022年|豪・米合作|英語・トルコ語|原題:Three Thousand Years of Longing
配給:キノフィルムズ
公式サイト