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新たなサスペンス演出

④ 陰謀論者と自作のロジックに類似を見出しパロディ化する

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バーベル(『アンブレイカブル』)、コップの水とバット(『サイン』)、右半身だけを鍛え上げた肉体(『レディ・イン・ザ・ウォーター』)。厳密な形式化を通じて、それら一見およそサインたりえないようなありふれた事物やイメージに、再び必然や運命と結びついた輝きや意味を与える点にこそかつてのシャマラン的な作劇の賭け金があったとすれば、そこでは、あえて極限までバカバカしいイメージを選び出すことで、イメージに発見した「サイン」を信じることの危険性は同時に解毒され、中和されていた。

代わって本作で浮上してきたのは、ときに同様の演出を用いながらも、同時にあからさまにキリスト教の信仰と結びつけられた、いかにも啓示をもたらすサインになりそうなイメージ(黙示録のビジョン、キリストの姿)が、実際には単に妄想の産物でしかない可能性を常に示唆し続けるという戦略だ。

一方で、カトリックの教育を受けたもののキリスト教徒ではないシャマランにとっては、そもそもはこの映画で俎上にのぼる終末論的なビジョンもまた、究極的には過去作の例と同様にあくまでも入れ替え可能なイメージ、つまりはネタにすぎないと言える。

原作を忠実に再現したという脚本の初稿を読んだシャマランが、タイムリーな深刻さを孕んだギミックとしても機能する、ヒッチコックが言う一種のマクガフィンとして、黙示録のビジョンやイメージを利用できると考えたことは想像に難くない。

だが他方で、「見た」サインに従ってバットでエイリアンを殴ることと、「見た」ビジョンに従って理不尽な殺人や脅迫を行うことが完全に異なるレベルに属する行為だということは、ネタとベタの区別に失敗したQアノンの議会襲撃事件や、カルト教団が引き起こした事件の数々を報道で目にしてきたはずのシャマランも、重々承知しているだろう。

それがたとえ同じぐらいバカバカしいサインであったとしても、バットや片腕の筋肉とは異なり、たとえば現実世界で実際に暴力を生んだ「ディープステート」が実在すると信じることがはらむ危険性は、いくら強調してもしすぎることはない。

しかし、わざわざ映画で扱うならば、その注意喚起は、娯楽性に貢献する形でなければならない。キャリアを重ねた余裕もあるのか、本作のシャマランは、ネタをベタへと、偶然を必然へと転化させようとする陰謀論者たちが再び影響力を増しつつある昨今のアメリカの状況、さらにはそうした陰謀論者が駆使するロジックと自作の構成の類似を十分に認識した上で、むしろその類似をパロディ化して、ギリギリまで誇張しようとさえしているように思える。

「サイン」と「目覚め」をめぐる自作ではおなじみの構造そのものをサスペンスの題材、つまりネタとして捉えることで、本作は最終盤に至るまで決して「収束」せず偶然と必然、懐疑と信仰の間で繰り返し揺れ続ける、自身のこれまでの作品とは根本的に異なる種類の緊張感に満たされた一本となったのだ。

【後編に続く】


*1三浦哲哉『サスペンス映画史』みすず書房、2012年、274-5頁。

*2 とりわけ、強い絆で結びついているという前提があるとはいえ、娘イシャナが『サーヴァント』で監督や脚本を担当したエピソードにおいて父のパブリックイメージに向けたきわめて辛辣な視線は、たとえプロレス的なじゃれあいに過ぎないとしても非常にスリリングである。

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