原作小説と映画版のラストを比較考察~脚本の魅力~
原作となったのは、イギリスの小説家アンソニー・バージェスが1962年に発表した同名小説。妊娠中の妻が4人の米軍脱走兵に暴行され、流産した経験が本書を執筆するきっかけになったという。アレックス率いるギャング団“ドルーグ”は4人組である。
イギリスで発表されるとたちまち話題を呼び、アメリカでも出版される運びに。その際、作者であるバージェスの意に反して、最終章をカットしたバージョンで世に出された。キューブリックが手がけた脚本は、イギリスで出版された完全版ではなく、不完全なアメリカ版に依拠している。つまり、オリジナルと映画版とでは結末がまったく異なるのだ。
映画版の結末から見ていこう。ルドヴィコ療法によって暴力に嫌悪感を抱くようになったアレックスは自殺未遂を試み、急死に一生を得る。体が回復を遂げると、すでに性行為や暴力行為への抵抗感はなくなっており、ベートーヴェンの「交響曲第9番」が大音量で流れる中、妄想の中でセックスに興じる。
キューブリックは、若者の無軌道な暴力を描く一方、それを抑え込もうとする体制側の暴力も同じくらいおぞましく描くことで、自由主義と全体主義、双方に批判的なまなざしを向けている。本作が製作された1971年はアメリカと旧ソ連による東西冷戦の真っ只中である。英語とロシア語を組み合わせた“ナッドサット言葉”を操る主人公は、対立し合う2つのイデオロギーの間で板挟みになった存在であり、双方の対立が生んだモンスターなのだ。
一方、原作のラストでは、回復したアレックスが新しい仲間とともに再び暴力に明け暮れる日々が描かれる。そんな日々にも飽きはじめた頃、かつてのギャング仲間と再会。妻と子供と仲睦まじく暮らす元同志の姿に感化され、暴力から卒業し、家庭を築いて落ち着こうと決心して物語は幕を下ろす。
加齢による心境の変化という現実的な理由によって暴力からの卒業が描かれる原作に対し、映画版では自由に対する抑圧、抑圧に対する反発というサイクルがイタチごっこのような形で続いていくことが示唆される。
原作版の結末に比べて映画版の後味の悪さは群を抜いている。公開翌年の1972年には本作に影響を受けた青年・アーサー・ブレマーが、アラバマ州知事ジョージ・ウォレスの暗殺を謀り、世間を騒がせた。ブレマーの日記は出版され、それに影響を受けたポール・シュレイダーが『タクシードライバー』(1976)のシナリオを執筆したのは有名な話だ。