映画の虚構性を暴き立てる大胆なシナリオ〜脚本の魅力
本作には、観客の想定を裏切る展開が随所に見られる。例えば、本作ではじめに殺されるのは一家の愛犬・ロルフィであり、息子のジョージ。これは、「子どもはさすがに殺さないだろう」という想定の裏を描く展開である。またラストでは、生き残ったアンナが拘束されたまま海に突き落とされる。その最後は映画の主人公にしてはあまりにあっけない最期である。
極め付けは「巻き戻し」だろう。アンナがパウルとペーターの隙を盗んでライフルを手に取り、ペーターに向かって引き金を引く。あわや形勢逆転か、と思いきや…。というあのシーンである。
この2人は本作が「虚構」であることを知っており、それゆえ一家に対して絶対的優位に立っている。これらのシーンに共通するもの。それは、劇映画における「あるある」の裏切りたいという欲望だろう。
たとえばアンナが最後に殺されるシーンは、アメリカのホラー映画によく見られる「ファイナル・ガール」(純粋な女性が最後に生き残る)へのアンチテーゼであり、「巻き戻し」のシーンは、脚本家シド・フィールドが定式化した三幕構成における「ターニングポイント」へのアンチテーゼである。
では、なぜハネケは映画を批判しているのか。ここで注目すべきは、パウルとペーターが語る次のセリフである。
「虚構は現実なんだろう?」
「なんで?」
「虚構は今見ている映画」
「言えてる」
「虚構は現実と同じくらい現実だ」
ハリウッドをはじめとする劇映画では、ドラマを盛り上げるために暴力が“使われる”。しかし、こういった暴力はあくまで「作りもの」にすぎない。現実に登場する死は本来、本作に登場する死同様、圧倒的に不条理で、陰湿である。そうハネケは言いたいのである。
さて、本作の制作から8年余り。ハネケは夢の工場・ハリウッドで本作をセルフリメイクした。タイトルは『ファニーゲームU.S.A』。ハリウッドの人々には本作の暴力が果たしてどう映ったのだろうか。