フレームの外にある死〜映像の魅力
残酷さばかりクローズアップされる本作だが、意外なことに殺人シーンは直接描かれてはいない。例えば最もショッキングなジョージの殺害シーンは、銃声や悲鳴、TVの画面に飛び散った血などにより暗示的に描かれている。
また、ゲオルグの死のシーンも同様に銃声のみで示され、アンナの死のシーンでも、海にアンナが落ちるシーンは直接描かれていない。
このような間接的な殺人シーンは過去のハネケの作品にも見られる。例えば『べニーズ・ビデオ』では、殺人シーンはフレーム外で行われ、惨劇は銃声や殺される少女の悲鳴で示されている。
このシーンについて、ハネケは次のように語っている。
「観客に映像を押し付けるよりも、彼らの想像力を働かせる方が常によいのです。なぜなら、映像というのは常により凡庸だからです。」『ミヒャエル・ハネケの映画術』より
映画批評家の赤坂大輔は、テレビやYouTubeの映像と「現代映画」の違いが、「フレームの外」を鑑賞者に感じさせるかどうかにあるとし、次のように喝破している。
「メディアは観客をフレーム内に閉じ込め、優れた「現代映画」は観客をフレーム外に開放する。」『フレームの外へ 現代映画のメディア批判』より
さて、ここで思い出して欲しい。中盤、一家を残し、パウルとペーターが一度姿を消したことを。ハネケにとってフレームの中の世界は、「虚構」であり、一家はどこまでもフレームの中でしか生きられない。
一方、フレームの外の世界は「現実」であり、パウルとペーターは「現実」と「虚構」を度々往還する。そしてフレームの中の「虚構」の世界は「スペクタクル」の世界である。そこにはリアルな死は映らない。ハネケにとって死は、表象できない「穴」として存在しているのである。