「水が流れて、最終的に気化して大気に充満する」
濱口竜介作品における水のテーマの重要性
水は人間の体内にも存在する。映画の後半、巧の娘の花(西川玲)が失踪し、巧と同行していた高橋と黛も行きがかり上、一緒に彼女を探すことになる。その際、黛がウコギのトゲに触れて手に怪我をしてしまう。ざっくりと切れた傷口からは鮮血が流れ出る。
巧は彼女の手当てをした後で、その部位を心臓より高い位置に挙上するよう指示を与える。水は重力に引っ張られて高いところから低いところへと流れる。だから、人為的に高さを作り出すことで血流に干渉し、止血を促すことができる。自然と人間のあいだで「バランス」をとるための知恵である。
よく知られているように、人体の約60パーセントは水である。当然、血液もそこに含まれる。体内に自前の「浄化装置」を備える人間は、ポンプたる心臓の力を使って「血潮」を身体中に行き渡らせ、「汚れた血」を回収し続けている。
そう考えると、本作のオープニングで浮かび上がる、赤と青の文字で構成された「EVIL DOES NOT EXIST」の英語タイトルは、さながら動脈と静脈に対応するかのようである。ゴダール作品を連想させる洒脱なタイトル表示だが、そこで働いている「ゲームの規則」は『気狂いピエロ』(1965年)のそれとは明確に異なる。単語は「EVIL(青)」「EXIST(青)」「DOES(青)」「NOT」の順に表示され、最後に直前まで存在した「悪」が否定される仕掛けになっている。
とはいえそれは、あくまでも水が液体の状態をとっているときの話である。氷(固体)は基本的に動かないし、水蒸気(気体)はむしろ下から上へと移動していく。
黛の手当てを終えた巧と高橋は、彼女を残して再び花の捜索に向かう。黛が一人になってほどなくすると、ストーブの上に置かれたヤカンの注ぎ口の笛部がけたたましく鳴り響き、中身の水が沸騰したことを知らせる。ヤカンの注ぎ口から立ち昇る水蒸気のイメージは、霧が立ち込める屋外の様相へと引き継がれていく。大気に偏在する水は捜索者たちの、そして観客の視界を制限する。
監督の濱口竜介は過去作の『ドライブ・マイ・カー』(2021年)について「水が流れて、最終的に冷え固まって雪となるような、そういう映画全体の見取り図」があったことを告白している※。この見立てに倣えば、本作『悪は存在しない』は、さしずめ「水が流れて、最終的に気化して大気に充満する」映画と言えるかもしれない。
※濱口竜介、三宅唱、三浦哲哉「「われわれは終わった後を生きている」という気分」、構成=ゆっきゅん、『キネマ旬報』2021年8月上旬号、キネマ旬報社、21頁。