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対立の果てに芽生える人間愛ー脚本の魅力

©大島渚プロダクション
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本作の物語は、アフリカ出身の作家、ローレンス・ヴァン・デル・ポスト(1906~1996)の短編集『影の獄にて』に収録されている二つの挿話が基になっている。原作の舞台はクリスマス。語り手である「わたし」のもとに戦友だったローレンスが訪ねてきて、戦時中思い出を語り合うといった構成となっている。

ちなみに、映画では坂本龍一演じるヨノイ大尉は戦犯として死刑に処されるが、原作版では生き延びており、ロレンスから預かったセリアズの遺髪を神社に捧げる場面が描かれている。

そんな本作テーマは、戦時下における異文化間の対立や無理解である。

例えば、セリアズが収容所に収容されて以降のシーンでは、ヨノイの剣術の気合いに俘虜たちが怯え、ハラを通じてヨノイにやめるよう伝える。また、カネモトの切腹シーンでは、俘虜長であるヒックスリーが「このような処刑を見る義務はない」と直接ヨノイに訴えかける(現代の日本人でも切腹は見るに堪えないだろうが)。

これの最たるものが、ヨノイとハラがセリアズの暗殺に失敗し切腹した部下を弔うシーンだろう。このシーンでは、ヨノイが死んだ兵士を戦士扱いにし、遺族に恩給を与えるためにローレンスに死を命じる。このときローレンスは「お前らの汚れた神のせいだ」と暴れ、抵抗する。ここでいう「神」とは、ローレンスに罪をなすりつけてまで秩序を守ろうとする、西洋人には理解できない日本人の心性を表していると考えることができるだろう。

他方で、本作には異文化間の対立を超える「人間愛」も描かれている。

例えば、カネモトの切腹シーンでは、カネモトが腹を切ると同時にレイプの被害者であるはずのデ・ヨンも舌をかみ切る。これは、両者が実は加害―被害関係ではなく、心の底で通じ合っていたことを示している。

この最たるものがヨノイとセリアズの関係性だ。法廷でセリアズに「一目惚れ」し彼を助けるために尽力するヨノイと、ヒックスリーに刃物を向けるヨノイを抱きフレンチキスを交わすセリアズ。彼らの関係性は男色としての視点から語られることが多いが、「性別(異性愛)を超えた人間愛」として考えることもできる(なお、「性別を超えた愛」といえば、身体を張ってヨノイを守ろうとする部下たちの存在も忘れてはならないだろう)。

また、両者に通底するのが「罪悪感」であるという点も興味深い。あらすじからも分かるように、ヨノイは二・二六事件に決起できず一人生き残ってしまったという罪悪感を抱えており、セリアズは障がいを抱える弟に一生心の傷を負わせてしまったという罪悪感を抱えている。つまり、2人は、国家や宗教といったシステムに絡めとられることのない人間の最も弱い部分で共鳴しているのだ。

そして、こういった友敵を超えた人間愛は、典型的な軍人であったハラの心にも芽生え始める。ローレンスを収監した夜、泥酔したハラは彼とセリアズを独断で釈放する。敬虔な仏教徒であるはずの彼は、2人の前で自分が「ファーデル・クリスマス(サンタクロース)」だとうそぶく。これにローレンスは、「あなたもやっぱり人間だ」と語りかける。

そして戦後、日本人を「異教徒」と考えていたローレンスは、戦犯として捉えられたハラのもとを訪れ、彼に次のような言葉を語りかけるのだ。

「あなたは犠牲者なのだ。かつてのあなたやヨノイ大尉のように、自分は正しいと信じてた人の…。もちろん正しい者などどこにもいない」

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