ヒューマンドラマとしての法廷劇ー脚本の魅力
本作は、なぜシンプルなのにこんなにも面白いのか。この問いへの答えとしてまず挙げられるのは、本作が複数のドラマ的要素を持っている作品であることだろう。
まず、あらすじからも分かるように、事件の検証を軸に物語が進む「サスペンスドラマ」である。とりわけ、陪審員8番が証言のちょっとした矛盾から評決に疑問を抱き、探偵よろしく身体を張って検証する様子には、純粋な謎解きとしての面白さが詰め込まれている。
また、本作は「会話劇」としての側面も持っている。例えば、少年が犯人で証拠として、殺人事件の発生前、彼が被害者である父親に「殺してやる」と言っていたという少年を挙げる中、陪審員8番は、本当に殺すつもりがなくても「殺してやる」と言うことはある、と論駁する。
しかし、これに対し、陪審員3号は反論。その後、激昂した彼は、8番に詰め寄りながら「殺してやる」と言ってしまい、「本当に殺そうとは思っていませんよね」とたしなめられる。本作には、こういったエスプリ(機知)の効いた意趣返しが随所に散りばめられている。
そしてなんといっても、本作は「ヒューマンドラマ」である。本作に登場する12人は、皆職業も異なれば、性格も社会的身分も異なる。陪審員11番の言葉にあるように、本作ではそんな彼らが、「民主主義」の旗印のもと集い、お互いの意見をぶつけ合う。
「郵便で通告を受けるとみんながここに集まって、全く知らない人間の有罪無罪を決める。この評決で私たちには何の損も得もない。この国が強い理由はここにある」
秀逸なのは、議論を経て、彼らの中に隠されていた偏見や社会の中に横たわる分断が炙り出されていくことだろう。他者の意見に触れ、徐々に自分の考えを改めていくさまは、一種の救済のようにも映る。
なお、脚本のローズは、実際にニューヨーク地方裁判所で殺人事件の陪審員を務めており、当時の経験をもとにテレビ映画(テレフィーチャー)用の脚本を執筆。この脚本が陪審員8番役のヘンリー・フォンダの目に止まり、本作の制作に至ったという。
しかし、本作の脚本に疑問がないわけではない。一番の疑問は、12人の陪審員が全員白人男性であり、黒人男性やアジア系女性が登場しない点だろう。ただ、本作の公開年は1954年であり、公民権運動やウーマン・リブ運動以前ということを考えると、これは仕方ないことだろう。
そう考えると、今私たちに課せられた使命は、人種や性別の多様性を反映した『十二人の怒れる男』を制作することなのかもしれない。