閉塞感を際立たせるカメラワークー映像の魅力
本作の脚本は、ワンシチュエーションで展開するドラマだけに演劇との親和性が高く、これまで幾度となく舞台化されてきた。
では、本来演劇に適した作品をあえて映像で表現することにどのような意味があるのだろうか。以下では、この点について述べたい。
一つ目は、アップの多用だろう。本作では、ツバを飛ばし激論を交わす陪審員たちの顔を、これでもかとばかりにクローズアップして映す。つまり、本作は、『裁かるるジャンヌ』(カール・Th・ドライヤー監督、1928年)や『アウトレイジ』(北野武監督、2010年)同様、役者の「顔」を楽しむ映画なのだ。これは、役者の演技を一定の距離から眺める演劇にはあり得ない表現だ。
二つ目は、閉塞感の表現だろう。監督のルメットは、物語が進むにつれ、徐々にレンズの焦点距離を長くすることで、陪審員室の密度が狭まるように演出。さらに、カメラの高さを徐々に落とし、終盤はローアングルから人物を撮影することで、閉塞感を高めている。
また、投票のシーンでは、12人全員が宣言する様子や挙手する様子をそれぞれのバストショットや手のみのアップで見せることで、それぞれの心のうちの迷いや立場を表現している。この辺りの表現も、ルメットの技が光る演出になっている。
本作のカメラを担当したボリス・カウフマンは、夭折したフランスの天才監督ジャン・ヴィゴの作品で知られる、映画史に残る名撮影監督。密室劇である本作では、ジャン・ヴィゴ作品でお馴染みの美しい自然描写は観られないが、その代わり堅実なカメラワークで緊張感のある持続を丁寧にすくい取っている。